ここ3年、終戦記念日には『日本のいちばん長い日』を見ている。
今年は今まででいちばんリアルに作品のメッセージを耳に聞いた気がする。
最初は無視していた黒沢年男演じる畑中少佐の無念にも年々耳を貸せるようになっている。
ただ何度見たとしても阿南惟幾の胸中を知ることはできないだろう。
 
二度と戦争を起こしてはならない。
 
初めて見た時には長く感じた157分も今ではあっという間に感じる。この時期の定番『火垂るの墓』もいいが『日本のいちばん長い日』こそ毎年地上波放送すればいいのにと思う。題材はシリアスでもエンターテイメント、勉強にもなる。敏郎さんの露出も増える。
 
この阿南を斬れ!
 
阿南の屍を越えていけ!
 
敏郎さんの男の気迫。あんなの間近でやられたら瞬時に背筋がビシッとなる。敏郎さんに怒られたことのある三船プロの元社員は “怒るとまたカッコイイんですよ” と言っている。怒ってもカッコイイ人なんて敏郎さんぐらいなものだ。怒られるのは大嫌いだが敏郎さんになら怒られてみたい。
 
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一度は断ったが金のために3週間で書き上げた橋本忍の脚本。さらに当初の監督小林正樹は製作陣と喧嘩して降板、急遽岡本喜八が撮ると決まった時、公開は3ヶ月後に迫っていた。そして喜八監督はこの企画に乗り気じゃなかった。傑作をものするに時間や思い入れは必ずしも必要ではないらしい。
 
戦争映画には「反戦映画」という括りがある。その括りの外側に「反戦」ではない戦争映画もあるということ。『日本のいちばん長い日』では阿南惟幾にも語らせるし最後のナレーションもはっきりと伝えたいことは述べている。辛くて二度と見たくない反戦映画ではなく毎年見て肝に銘じることのできる戦争映画である。
 
公開年の12月29日、昭和天皇は家族と共に『日本のいちばん長い日』を鑑賞したそうである。この事実は2014年9月に宮内庁より公表された『昭和天皇実録』に記載があるとのこと。監督やスタッフや敏郎さんたち役者は、このことを知っていただろうか。
 
昭和天皇はなぜこの作品を鑑賞しようと思ったのか、理由があるのなら知りたい。
 
『昭和天皇実録』は2015年以降順次公刊、購入もできる。現在第12まで公刊されており昭和34年までの記述が最新。9月に第13から第15まで公刊されるようだが、『日本のいちばん長い日』が公開された昭和42年は恐らく第14に収録される。9月が待ち遠しい。
 
『日本のいちばん長い日』を撮らなければ、小林正樹が降板しなければ、喜八監督の作品が御前にかかることなどまず無かったであろう。もし昭和天皇が自作を鑑賞したということを知ったら“もっと撮りたいように撮ればよかった!”と悔しがったのではないだろうか。
 
御前には向かないが、歩哨の夜回り時に塀から落下して頭を打ったことによる外的ショックで発狂した『独立愚連隊』の児玉大尉を演じる敏郎さんは必見だ。児玉大尉も畑中少佐も目玉をひんむいて喋る。彼らは興奮状態に在る。敏郎さんは軍隊で様々な興奮状態を目にし、それを軍人の狂気として演技に活かしたに違い無い。
 
あの児玉大尉を評して、いやアレは日常茶飯の三船敏郎でしょ、と喜八監督は言った。
 
喜八監督には敏郎さんが常に興奮しているように見えていたのだろう。敏郎さんのデフォルトのエネルギーが他の多くの人間と違うのは当然。成し遂げたことを見ればわかる。喜八監督の「アレは日常茶飯の三船敏郎」発言を聞いた時、最初は冗談で言ったのかと思った。でもそれにしては真面目な普通のトーンで言っていたことを思い返せば、いつも元気ハツラツ、若干短気な敏郎さんを近くに見てきた喜八監督には、冗談でもなんでもなくアレが普段の敏郎さんと重なったのかもしれない。
 
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いずれ私の深読みに過ぎないが、こうやって時間をかけて一人の人間を追う日々のうちには色んなことが反転していく。
 
敏郎さんより3年遅れて98部隊に配属された鷺巣富雄、後の漫画家/アニメーターうしおそうじは、生涯で忘れ得ぬ4人、山本嘉次郎、円谷英二、手塚治虫、三船敏郎の伝記四部作を書き上げる夢を持っていた。だが3人目の手塚治虫の伝記を執筆中に急逝、本人が最も楽しみにしていた敏郎さんの評伝を書き上げることなく終わる。同部隊に写真工手として所属し敏郎さんと生涯付き合いのあった彼ならば、職業柄の観察眼の鋭さで、どれほど表情豊かな評伝が書けたことか、ことに軍隊での敏郎さんの様子が沢山知れたのではないかと思うと残念という外ない。
 
 
今年は8月にしては涼しく雨音の聞こえる中で、長く暑い一日を見た。来年も普通に見られますように。