6月は敏郎さんがニューフェイスオーディションを受けた月である。
暑くも寒くもない、丁度一年の半分で始まりからも終わりからも遠い、台風の目のように静まり返ったニュートラルな時分。気の進まぬオーディションという名の品評会に並ばされるのは敏郎さんにとって憂鬱なことだったかもしれない。本意ではないことで評価される反感、不甲斐なさ。曇り空の季節、少しだけリアルに敏郎さんのモヤモヤした気分が伝わって来る。
でも、おかしくもないのに笑えないと言ったのは、笑う演技をしてくださいと言われているのがわからなかったからではない。生活のため仕事が必要だったにもかかわらずそんな態度を取ったこと、自由にものが言える時代に生きていることを実感して、それほど悪い気分でもなかったのではないか。
深夜に何気なく合わせたチャンネルで『暗黒街の顔役』のワンシーンが目に飛び込んできた。敏郎さんが自動車修理工場長役で出演した喜八監督の作品ではなく、1932年に公開されたアメリカ映画、アル・パチーノ主演でリメイクもされている、口数より弾数な「ザ・ギャング映画」である。そこへ黒澤明の写真が出て、続いて『酔いどれ天使』のラスト、松永と岡田の死闘シーンが映し出されるに至って眠気は吹っ飛んだ。
地上波でそんな佳境のシーンが放送されるとは全くの不意打ち。『暗黒街の顔役』のポール・ムニもナカナカの面相だが、松永を演じる敏郎さんだって負けてない、ほんの数秒見ただけでも衝撃的だ。この『酔いどれ天使』も『暗黒街の顔役』や『白熱』同様、異形で魅力的なギャング役のせいでギャングを否定しきれなかったアンチギャング映画の傑作だろう。
ドキュメンタリー映画『MIFUNE THE LAST SAMURAI』を見た。
正直に言わせてもらうと想像以上の中身の薄さである。ニュース映像か長い予告編のようだった。やはりこの手の作品には敏郎愛の多寡が如実に表れる。エンドタイトルを見ながらそう思った。
見るべきところはある。未見の写真も多かったし子供相手に普通のお父さんしてる三船家ホームビデオもチラッと見ることができた。
司葉子が三船敏郎を絶妙に評した「海のような人」という表現とその理由、そのとおりだと思った。また彼女の発した「女を掘り下げない東宝映画」というニュアンスの言葉、そう言われればそうだ。東宝が男を掘り下げていたかは知らないが、敏郎さんはそんな東宝の顔として男として主役を張ってきた。東宝において敏郎さんは、本来は女優が受けるような男たちの熱い視線を浴びていたとも言える。この感じ方はジェンダーやセクハラを意識する時代以降のもので当時の人たちにさほど違和感は無かったように想像する。敏郎さんは男の五感にも訴える男だった。
このドキュメンタリーを見て改めて感じた、黒澤明は敏郎さんに近づき過ぎた。野上照代が「あれだけ惚れ抜いて」と表現したのが意味深に響く。黒澤明の立場になって考えれば、強い愛情を瞬間的に日々抱いていたとしても全然理解できる状況だ。距離を置く時、どれくらい離れると元に戻れなくなってしまうのか。肌もあらわな菊千代は褌一丁複雑な表情で膝を抱えている。
このドキュメンタリーの最も良くない点は、敏郎さんのドキュメンタリーなのに敏郎さんの印象が薄いことである。インタビューを受ける共演者や同業者たちは敏郎さんのことを語ってはいる、黒澤明抜きで敏郎さんを語ることが出来ないのはわかっている、それにしてもの後味である。
敏郎さんを追いかけるのは難しい。
海は大きすぎて今も誰も全容を掴むことができないままでいる。