
1945年7月に撮影されたとみられる敏郎さんの写真=三船プロダクション所蔵 三船プロ、くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク提供
国際的映画俳優として活躍した三船敏郎さん(1997年に77歳で死去)の旧陸軍時代のものとみられる写真が見つかった。終戦直前に熊本市の旧陸軍隈庄(くまのしょう)飛行場で演劇をした際に撮影された可能性が高いことが、くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク(熊本県玉名市)などの調査で分かった。デビュー前の演劇の写真は他に例がないといい、三船さんの長男で三船プロダクションの三船史郎社長は「俳優としての父の原点になる写真」と話している。 -source:毎日新聞 2016年3月19日
これは凛々しい。敏郎さんの新たな男前伝説がココに。
先人の貴重な取材(ヲタが、三船敏郎に恋をした。「戦時中の三船ちゃん ~蒲生野40号より 八日市郷土文化研究会~」)により既にその存在が予感されていた『敏郎さん演技経験アリ説』を裏付ける写真が今出たわけだ。
保存状態の優れたこの写真には、すでに敏郎さんの未来が写っている。撮るんじゃなくて撮られる側になるという未来が。25歳の敏郎さんは男前というよりは美青年。こんな男が6年も軍隊でくすぶっていたとは。いや、ただくすぶっていただけではなさそうだ。憂さを晴らすには丁度いい、メイクして衣装着けて大声出して皆を驚かす。場違いなほど顔の整った敏郎さんは、野郎たちを前に、シンプルな舞台の上で、何を表現しようとしたんだろうか。
去年10月に開催された京都国際映画祭において、仲代達矢氏が「三船敏郎賞」を受賞した。
受賞スピーチで仲代さんは、俳優になる前は敏郎さんの大、大、大ファンで、『酔いどれ天使』を12回連続で見たと言っていた。私も『酔いどれ天使』を初めて見た時は連続見をした。松永をもう一度見たくて、見終わってすぐもう一度初めから見た。映画をDVDで見る時代なら簡単に出来る「連続見」だが、当時で12回連続は凄い。
仲代さん、貴方も松永にヤラレていたとは驚きです。
敏郎さんとの数々の共演シーンが思い起こされ、そのどの役もとても個性的なのに不思議と控えめな静けさのある仲代さん。この方も大スターなのに気取ったところの全く無い、気さくで温厚な人という印象。仲代さんが活躍されているのを見ると、敏郎さんも一緒になって活躍しているような気がする。
ここからはちょっと意地悪なこと書く。
彼は主に東京で製作された映画作品に出演してきて、京都との所縁の薄い俳優でした。それでもあえて、彼の名を冠したのは、三船敏郎の活躍してきた軌跡がまさに「再び日本映画が世界に打って出るための発信拠点を目指す」という本映画祭の主旨に合致したからに他なりません。
本賞は、日本映画界を代表する方々で構成される審査会により、国際的な活躍を期待される俳優を表彰します。全ては、三船敏郎のように世界に誇れる大俳優の登場を応援するためです。
これは2014年の京都国際映画祭のHPにあった「三船敏郎賞」新設の趣旨の抜粋。
今回の仲代さんの受賞は、この趣旨から見て自分にはピンとこない。仲代さんは既に国際的な活躍をしてきているし、期待に十分応えてきた、いわば敏郎さんクラスの俳優だから。
なぜ今こんな新人賞みたいな賞を仲代さんに贈ろうとするのか?
本当に世界に誇れる俳優の登場を応援したいのなら、違う人が受賞していいはず。例えば『酔いどれ天使』で松永を演じたような未知数の役者がいたら、その人にこそ「三船敏郎賞」を贈り、皆にその存在を知らせて欲しいと思う。選者の見る目が試される、そのほうが楽しくないか?
くれるというものを、しかも敏郎さんの名がついた賞を、仲代さんがいらんと言えるはずもなく、言うはずもなく。
役者が一番欲しいものは何か。賞ではなく役であると思う。敏郎さんにはそのへんの欲求はさほどなかったんではなかろうか。ほぼ毎回主役級の役を当て書きしてもらってイイよな三船ちゃんは、みたいな。役者志望ではなかったし、役を争う敏郎さんは想像できない。与えられた役を一生懸命演ずる、それが敏郎スタイル。やりたい役をやるか与えられた役をやるか、どっちが役者として勉強になるか厳しいか。敏郎さんは一見ラッキーそうに見えて実は相当しんどい道を歩まされてきたと思う。敏郎さんは『西鶴一代女』で勝之介という役をもらった時、君は黒澤監督の元で何年もやってきた、だから君の好きなように演じてくれればいいと溝口健二監督に言われたそうだ。
監督というのはそういう見方を役者に対してするものなのかと思った。監督にとって、自分の作品における役というのは与えたいものであって、競って勝ち取って欲しくないものなのかもしれない。