戦後間もない日本。悲惨な敗戦の後であっても日常に戻って生きていかなくてはならない。強かに適応していく当時の日本人の姿。戦後のドサクサ、無法のホツレに新たな縫い目が走る。敏郎さん演じる大野産業の若き社長大野源三郎も度胸一つ体一つで成り上がっていった新興の波に違いない。戦争による若干のリセット。ただ人間の良心だけがストッパー。

復興の時代、混乱の中で国家立て直しが急務であり、それにはとにかく真っ当な経済をということで、一つの策として闇物資の売買撲滅が叫ばれていた。連日街頭で闇撲滅キャンペーンを張る正義漢の巡査、ロッパこと古川緑波演じる小原庄之進と、その義理の弟で現実的な行動原理でもって闇システムを日々利用する小料理屋の亭主、エノケンこと榎本健一演じる小原金次郎が主人公。日本喜劇界のレジェンドと敏郎さんを一度に拝めるお得感ある作品。


 

小原金次郎は妻に店を任せ自分は闇物資の買い出しに奔走する。闇取締まり中の小原庄之進はそんな金次郎を必死で追いかけ捕まえようする。追跡シーンは古典的な喜劇のワンシーン。エノケンロッパと呼ばれ、動きで魅せるエノケンと雰囲気のロッパ、喜劇の二大巨頭として並び称される二人の共演は私が考えるよりずっと贅沢なのかもしれない。

 
 
 

本作は前後編に分かれている。闇物資を頑として受け付けず、家族を飢えさせ子供を苛められても乏しい配給品のみで清貧を貫く真面目過ぎる小原庄之進は、実は小原金次郎が善意で施す闇米で自分と妻子が食いつないでいたことを知り、自責の念とショックのあまり警察の職を辞してしまう。そして田舎へ引きこもり石ころだらけの土地で農業でもやるしかないと悲壮な決意を妻に告げていた正にその時、その土地に良質な石炭がゴマンとあることがわかったので是非ゼロ7桁で売ってくれというどこぞからの電報が届き運命の大逆転をしたところで終わる前編と、そこからの転落と復活を描く後編という、結構ヴォリューミーな作品だ。

言葉遣いは丁寧だが早口で押し付けるような口調の有無を言わさぬ計略家、闇の元締め大野源三郎を敏郎さんは演じている。政治家をバックにつけて恐喝ベースで商売繁盛、警察内部の情報屋を使って摘発を免れまくる。


 

部下で関西弁の小悪党、課長田代を演じるのは喬さん。敏郎さんとの絡みはそれほど多くない。本作での喬さんは薄い演技、ただし見たらトラウマになるほどマジで怖い顔をするシーンがある。
 
接待用の回転式高級バーカウンターを所有する成金大野源三郎。

 
 

慌てて銃を隠す、笑って誤魔化す、やんわり脅す、急にムッとする。痩せている。

 

どんな大スターでもデビュー当時は存在感も見た目もどこか貧相なものである。『銀嶺の果て』でも感じたが、本作のほうはさらに線が細い。声もチョット高い。公開年度は本作が後、でも撮影順序は本作の後に『銀嶺の果て』だったらしい。そういえば本作後編に出てくる警察車両出動シーンが『銀嶺の果て』オープニングで使われていたような気がする。本作の敏郎さんのほうが初々しいのはそういう事情があるからだ。
 
役柄もあるが敏郎さんの演技はスピーディーで荒っぽい。どこかまだ演技の場を拒否してるような、真面目なんだけど本気じゃない、そんな感じがある。

一番印象的なのは大野源三郎の着用するスーツの襟のデカさ。細すぎる敏郎さんがいけないのか当時の闇屋はデカ襟で決まりなのか単純に衣装部の調達ミスなのか。敏郎さんは身だしなみに気を使う非常にオシャレな人であるから、サイズの合わない服なんてのは気分悪かったと想像する。それともアレが当時のトップモードだったりするのか。

 
 

しかし敏郎さんが男前であることに変わりはない。




喜劇王が二人揃ってどれだけ笑えるのか期待したが残念ながらソコはほぼ無かった。笑いの感覚が今と違いすぎる。そんな中唯一笑えたのは電報に書いてある「ゼロ7桁」を揃いも揃って1万だの10万だのと言い間違えるシーンだ。お約束の流れだが「1000円のわけねーだろ」と突っ込まずにいられなかった。

清貧の正義感こと小原庄之進は急に破格の金持ちになって別人になってしまう。仕事もせず妻も子供も顧みず日がな芸者遊びである。適当に遊ぶということを知らない堅物、どこにブレーキがあるか知らずに車を運転しているようなもので自滅の道をひた走る。一方義理の弟というだけでゼロ7桁の半分を相続した小原金次郎は、逆に手堅く小原商會を立ち上げ、妻に任せっきりだった小料理屋も本物のウィスキーを置くような立派な店に改装する。

 
 

今や社長となった小原金次郎を早速つぶしにかかる大野源三郎。まずは軽く脅して懐柔した上で反発を許さない力関係の誇示、そして油断したところを立ち上がれないほどに痛めつける。武力行使は部下に任せ、自分はデカイスーツに本性を隠し小手先でエノケンを圧倒しようとする。ポッと出のヤクザが意気がってるように見えてしまうのはエノケンの存在感に押されてるのもあるし新興勢力の浅さのせいでもある。大野源三郎と『酔いどれ天使』の松永の境遇は似ている。ちなみに本作の闇市のセットは『酔いどれ天使』に流用されている。

 
 

怖すぎる喬さん。

小原庄之進のエグいどん底。

 

愛息子を失いかけてやっと目が覚めた小原庄之進。その彼に追い詰められ手入れされた賭場で、大野は雄々しい顔してホゾを噛む。観念したアップも男前だ。駆逐される悪の惨めさをそれだけに終わらせない華のある若きボスの顔になっている。意気がってる感じ、身の丈にそぐわない早すぎた未熟な悪が、若い敏郎さんには本当によく似合う。スーツの襟のデカさは、この「身の丈にそぐわない」メタファーじゃないのか。敏郎さんは脇役でありながら誰よりも多いクローズアップで爪痕を残した。

 

悪いと思ってもなぜ皆そう言わないのか。悪人は警察がつかまえるものだと思ってる。悪人は国民がつかまえるものだ。戦争に負けて皆バカになってしまったのか。
 
ラストの方で小原庄之進が事件記者に吐露した心情、戦争のせいだけでは無い気もするが、もし戦争に負ける前そんなバカはいなかったのだとしたら、確かに戦争が悪いのかもしれない。それをバカと呼ぶかどうかも含め、これはテロや戦争に事欠かない現代社会に改めて新鮮な問いなのかもしれない。

 

役柄がバラバラに動いて群像劇とまでは描き切っていないが、色々と言い尽くされていない疲弊感のない時代の心を映している。我々が初めて敏郎さんを目にしたという意味では『銀嶺の果て』がデビュー作だが、敏郎さんにとっての本当の映画デビューは本作ということになろう。大抵ふてぶてしく自信満々だが、追い詰められた時に見せる困惑の瞳がやはり繊細だ。この感受の様、揺れやすい心、感度の良さ、これが三船敏郎の魅力である。脚本に示されている大野源三郎という男にはない部分だろうが、敏郎さんが演じて加えられていった繊細さではないか。これがさらにガラスのような繊細さに昇華していったのが松永なのだと思う。


  
作品データ
スタッフ、共演者