フィルムセンターにおいて『生誕110年映画俳優 志村喬』と銘打って、志村喬さんに関する様々なコレクションの展示と出演作品の上映会が催されている。300人ほど入る大ホールでの上映会、プログラムには『醉いどれ天使』『野良犬』『醜聞』『七人の侍』など黒澤作品の他に敏郎さんとの最後の共演作『お吟さま』も予定されている。
病をおして利休役で出演した喬さんに、秀吉役の敏郎さんは、役柄とはいえ何度も死ね!と罵声を浴びせなくてはならず、辛かっただろうと思う。全ての撮影が終わって現場を去る喬さんに「また共演できる日が来るのを心から楽しみにしております。」と挨拶し、最敬礼で送ったそうだ。
時の流れというもの、命あるものすべて生から死へ流れる1つかぎりの理の道すじ、でも喬さんと敏郎さんの間には、二人が揃った時に立ち上ってくる別の時の流れというものがあったはずだと思う。そこで流れる時間は現実の時の流れの中に何度でも立ち上がり、決して現実の時の流れと混じることもなく、変わることもなく、去りもしない。それは映画の中で流れる時間。松永と眞田の関わったほんの数ヶ月、勘兵衛と菊千代の濃密な季節、村上と佐藤の一刻を争う酷暑の夏。
私が初めて役者志村喬を目にし、存在を認識したのは、『男はつらいよ』シリーズの記念すべき第1作目、さくらと博の披露宴でのシーン。不意打ちを食らったようだった。見るたびに泣かされる名シーンだ。喬さんは役者というより本当にいる人のようだった。この見たことのない俳優は「志村喬」という名脇役であると教えられたが、私は一度も脇役としてのその人を見たことがなかったので、いつもは主役の人がここでは特別出演をしている、そういう風にしか感じられなかった。たった数秒で空気を変え人の心を”底”から動かす、演技の持つ力というものを見せてくれた。リアリティではなく、あるべき、あってほしい存在を感じさせる力を。
志村喬という人物、あの人の風情を、一体どこから来てどこへ行ったことで纏うようになったのか、またそれが何なのかも含めて、理解を深めたい、要するに、知っているようで全く何も知らない志村喬という男について知る機会である。
敏郎さんの胸の内も、ほんの少し理解できるのではないだろうか。
喬さんは「三船君とは、やりいい」と言ってくれた。
敏郎さんに父親のような感情を持っていた喬さんは、敏郎さんが離婚問題でバッシングの酷かった時、若い日のエピソードを語り、敏郎さんがどんなに心やさしい人物であるか、愛情を込めて語ったという。
ありがとう、喬さん!